大阪高等裁判所 昭和30年(ネ)302号 判決 1961年5月27日
控訴人 矢畑区
被控訴人 竹野区
主文
原判決を取消す。
被控訴人の境界確認の請求を却下する。
被控訴人の所有権確認の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。
事実
控訴人は原判決を取消す、被控訴人の請求を棄却する、訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴人は控訴棄却の判決を求め、なお所有権確認の請求は本件立木は被控訴人ほか宮、筆石の三部落の共有であるから被控訴人においてその三分の一の持分権を有する旨の確認を求める趣旨であると述べた。
当事者双方の事実上の主張、証拠の関係はつぎに付加するほか原判決の記載と同一であるからこれを引用する。
被控訴人は山水カ嶽四〇番地の山林および同山林上の立木は被控訴人区ほか宮、筆石の三区の共有であつて控訴人所有の市カ尾一〇六番地の二の山林と境界を接している、なお権現社は南向に建てられてあつたものである、と述べた。
控訴人は、被控訴人が山水カ嶽四〇番地の山林の共有者の一人であり、これと控訴人所有の市カ尾一〇六番地の二の山林と境界を接していること、権現社殿が南向であつたことおよび別紙図面のB点からの見透しの終点として『権現社の後ロC点』との主張を撤回しこれを被控訴人主張の如く『権現社の後ハ点』なることを認める、と述べた。
証拠として、被控訴人は甲第四号証の一ないし五、第五、六、七、八号証、第九号証の一、二、三、第一〇、一一、一二号証の各一、二を提出し、当審証人畑中善右衛門、大下純一、大下益雄、山副政治、尾瀬増右衛門、大下作右衛門の各証言、当審における被控訴人代表者野木善保本人尋問の結果および当審検証の結果を援用し、乙第九、一〇、一一、一二号証および第一四号証の一、二の成立を認め、乙第一三号は証明文の部分の成立を認めるも他は不知、乙第一五、一六号証は不知と述べ、控訴人は乙第九ないし第一六号証(但し乙第一四号証はその一、二)を提出し、当審証人高木良但、相見保之助、川戸弥之亮、大江磯治、井上正一、木下晴之、宇野勝治(一、二回)の各証言および当審検証の結果を援用し、甲第一二号証の一は郵便官署作成部分の成立は認めるも他は不知、同号証の二は不知、他の甲号各証(第四ないし第一一号証)の成立を認め、甲第五、六、七、八号証を利益に援用した。
理由
相接する土地の境界の確定を求めるいわゆる境界確認の訴についての判決は、形成判決(形式的)に属するものであるから、その土地の共有者の一人が、右の訴を提起した場合においても他の共有者に対して判決の形成力の効果が及ぶものである故に、右の判決の確定したときは、共有者全員にとつて、共有地の所有権の範囲(右境界方面の部分)が確定されると同一の結果が生じることゝなる。従つて、境界確認の訴の当事者となり得るものは、共有地全体について処分権を有するもの、すなわち、共有者全員であるといわざるを得ない。本件においては相接する隣地の一方たる山水カ嶽四〇番地の山林が被控訴人を含めた共有者の共有に属することは当事者間に争なく、しかも被控訴人以外の共有者が共に当事者として訴訟に加入していないこと明であるから、これが境界確認を求める本訴は当事者適格のないものの提起したことゝなり、却下を免れない。
よつて立木所有権確認の請求につき案ずるに、被控訴人は京都府竹野郡丹後町犬塚の方から水分の尾伝いに登る道と同所大谷の道の登詰との交点(別紙図面記載の(イ)点)から南方三〇間の山道の点(同図面記載の(ロ)点)より権現社の後(同図面記載の(ハ)点)を見透した線から北に生育する立木は被控訴人ほか二部落の共有であると主張する。本件相隣地については文政二年以前よりその境界につき紛争があつたが、同年一一月役人立会の上でこれに関する協定が成立したことは当事者間に争なく、その協定書にして成立に争ない甲第二号証(乙第二号証と同一)によると、その協定事項は、『以来山境之儀は字犬塚の辺より水分けの尾通りを伝い山水カ嶽根方道際より峯筋を真直に引上げ字大谷登詰候場所より三拾間余南之方山道に引附夫より権現社後ロえ見通し右境より南は矢畑村地所に而北は宮村筆石竹野願興寺四ケ村之入会場興心得一同無申分議定書為取替右一条に付重ね而御願筋毛頭無御座候間此段御聞済奉願上候』とあり、被控訴人はこれを現地と照合して右『登詰』とは人の登りうる道の終点を意味しこの地点が別紙図面(イ)点、それより『三拾間余南之方山道に引附』点が同(ロ)点、『権現社』が同(ハ)点と主張するが、当審における検証の結果に同号証の右記載を比較対照すると、右『登詰』地点を同(イ)点とすると、それより『三拾間南之方山道に引附』けた地点が何故同(ロ)点となるか不明である。すなわち、右(ロ)点は(イ)点から南へ直線五七メートル(約三〇間余)の地点ではあるが、そこには『引附』けられるべき『山道』もなく『根方道際より』の『峯筋』よりも東へ若干逸れている。そして『権現社後』は『登詰』地点から『見通』さるべきであるところ、『権現社』が南向に建つていたこと当事者間に争ないから、同(ロ)点からは僅に『権現社後』の一端なる西北角を『見通』しうるにすぎず、『権現社後』の全部すなわち『権現社』の西北角から東北角に至る線を『見通』すことのできないことを認めることができる。従て原審証人蒲田弥蔵、原、当審証人畑中善右衛門(原審は一、二回)、大下純一、当審証人大下益雄、山副政治、大下作右衛門、尾瀬作右衛門の各証言中被控訴人の右主張を支持する部分は到底首肯できない。控訴人はこれに反し『登詰』地点なる別紙図面(A)点から三〇間余(実測四三メートル)南方の山道へ『引附』けた地点同(B)点から『権現社後』を見通した線以南の山林は控訴人の所有に属するものであると主張し、右検証の結果によると大谷の谷筋のうち一番高い点に達する谷筋の登詰である控訴人主張の(A)点より約四五メートル南方の『山道』に『引附』けられた(B)点から『権現社後』の全部を『見通』し得られるし(もつとも現在は樹木に遮られているが、前記協定書の作成された当時としては見通しえられたものと権現社の後に立つて観測した当審検証の結果により推測しうる)、同(A)点が『大谷』と称する三つの谷のうちの中央に位する谷を『登詰』めた付近最高の場所であることを認めることができるので、これと当、原審証人木下晴之、井上正一、大江磯治、原審証人善村久吉、蒲田保、当審証人宇野勝治(一回)、相見保之助、川戸弥之助、高木良但の各証言を総合するときは本件相隣地は控訴人主張の線において相接するものというべく、他に右認定を動かすに足る証拠はない。もつとも前記協定書にいう『大谷登詰』は大谷の麓から真直に登る谷筋を登詰めた地点である被控訴人主張の(イ)点に当るようにみえぬことはないが当審検証の結果によれば大谷の谷筋は数筋あることが明であつて、登詰は必ずしも右(イ)点と解さねばならぬことはないし、登詰という表現はむしろその谷筋のうち一番高いところへ達する意味にとるのが妥当であると考えられ、その意味によると前段説示の控訴人主張の(A)点に通ずる谷筋の登詰ととるのが相当であつて、被控訴人の登詰に関する主張も採用できない。してみると、被控訴人は控訴人の主張する右の線より北にある山林に生育する立木に対し持分権を有するは格別(そして弁論の全趣旨によれば被控訴人の本訴請求は控訴人と被控訴人のそれぞれ主張する各線の中間にある山林の立木に対する持分権の確認を求めるものなることは明である)、これを超えて控訴人主張の線より北にある山林に生育する立木に対する権利については結局証明なきに帰し、この点に関する本訴請求は棄却さるべく原判決は取消を免れない。
よつて民事訴訟法第三八六条第九六条第八九条を適用し、主文の通り判決する。
(裁判官 大野美稲 石井末一 藤原啓一郎)
図<省略>